キングダムから学ぶ儒教と朱子学

キングダムにおける韓非子

キングダム70巻第761話「情報戦」より:原泰久著
キングダム70巻第761話「情報戦」より:原泰久著

法家と儒家の架け橋

キングダムにおいて、韓非子は非常に魅力的なキャラクターとして描かれている。法家と儒家の両方の思想を学び、人の本質が性善なのか性悪なのかから問を投げかける姿は、物語の中で信に大きな影響を与えるだけでなく、私たちの心を掴むものがある。

 

キングダムでの韓非子の活躍

  • 政との謁見: 信によって秦へ招聘された韓非子は、その卓越した才覚で秦王政と謁見する機会を得る。政との謁見では一般論に終始して、学説の正しさは伝わるが、どこか煮え切らない対話で終わる。
  • 李斯との対立: 同じく荀子に学んだ旧友である李斯は韓非子の圧倒的な実力を知っていた為、韓非子が政に見せている姿はどこか覇気のないものに感じていた。それもそのはず、韓非子は実施には韓の間者の役割を担っていて秦には純粋な法家としてではなく、韓の工作の為に訪れていたからである。

韓非子の悲劇的な最期

韓非子は政と謁見し意見を伝える事が出来るほど重用されるが、李斯の部下に韓の工作員である事が露見する。この事から李斯にも伝わり、李斯が韓非子を捕らえて拘留したタイミングで李斯の部下が毒殺を実行し生涯を終える。

 

キングダムにおける韓非子の意義

キングダムにおける韓非子は、単なる歴史上の実在人物ではなく、物語を動かす重要なキャラクターとして描かれている。彼の思想は、秦の統一という大きな目標に向かって、王政や李斯、そして信といった登場人物たちに多大な影響を与えた。

  • 法治国家建設の思想: 韓非子の法治思想は、秦の統一という壮大な目標を達成するための重要な要素となった。
  • 李斯との対比: 李斯との友情と対立は、法家思想の多面性と、その解釈の違いを浮き彫りにした。

韓非子の死は、秦の統一という歴史の転換期における悲劇的な出来事として描かれる。彼の思想は、秦という国家を大きく変えましたが、同時に彼の命を奪うことにもつながった。


実際の韓非子の生涯

法家思想の大家、そして悲劇の最期

法家思想の祖、韓非子の波乱の生涯

中国の戦国時代末期に活躍した思想家、韓非子。その生涯は、法家思想を確立した偉大な哲学者としての側面と、同門の李斯の讒言により悲劇的な最期を遂げた人物としての側面、大きく二つに分けて語る事ができる。

荀子に学び、法家思想を大成

韓非子は、重度の吃音に悩まされながらも、幼少期から文才に秀でていたとされる。荀子に師事し、法家思想を学び、その思想を体系化して『韓非子』を著した。この書は、君主が法によって厳しく統治し、国を安定させるべきであるという思想を説き、後の秦の統一に大きな影響を与えた。

故国韓への忠誠と秦への使節

しかし、韓非子は生まれ故郷の韓が秦に滅ぼされそうになる危機感を抱き、韓王に何度も建言を行ったが、その才能は認められなかった。やむを得ず自ら秦への使節として赴いたとされる。秦王は韓非子の思想に感銘を受けたが、李斯の嫉妬により、韓非子は獄中に閉じ込められ、毒薬を飲まされて自害に追い込まれたとされている。

『史記』と『戦国策』の異なる記述

韓非子の死については、『史記』と『戦国策』で異なる記述が見られる事から秦に赴いた時に死んでしまったのは最もらしいが、死因については今からでは知る由もない。韓非子が周囲の嫉妬や陰謀に巻き込まれ、悲劇的な最期を遂げたことは確かである。

  • 『史記』: 李斯の讒言により獄中で自害
  • 『戦国策』: 秦の重臣・姚賈への讒言により処刑

韓非子の思想とその後

韓非子の思想は、法の支配による強大な国家建設という点で、後の秦の統一に大きな影響を与えました。しかし、その一方で、人々の自由や多様性を抑圧する側面もあると指摘されている。韓非子の生涯は、法家思想の誕生と、その思想がもたらした光(性善説)と影(性悪説)を物語る、ドラマティックな物語と言えるかもしれない。

儒家から儒教への変遷

儒学が宗教色を帯びるまでの道のり

儒学が思想体系から宗教へと変遷を遂げた過程は、中国の歴史と深く結びついた複雑なものであった。

儒家思想の誕生と発展

儒家思想は、魯国(後の趙の地域)の孔子によって創始された。孔子は、礼や仁を重んじ、人々が平和に暮らすための道徳的な規範を説いた。孔子の後、孟子や荀子など多くの思想家が儒家思想を発展させ、諸子百家と呼ばれる思想の百花繚乱の時代を迎えた。秦の統一後、漢の時代になると、儒学は国家の思想として位置づけられ、董仲舒によって天の道と結びつけられることで、儒教は国家の安定と統治の思想として確立された。

儒教への変遷

漢代以降、儒学は徐々に宗教的な色彩を帯び始めた。孔子が神格化され、儒教経典は聖書のように扱われるようになり、儒教の儀式や祭祀が盛んに行われるようになった。中国に仏教が伝来すると、儒教は仏教の影響を強く受け、儒教と仏教の思想が融合することで、儒教はより神秘的な色彩を帯びるようになった。宋代には、朱熹によって朱子学が体系化され、儒教は理性的な学問体系として再編された。

儒家と儒教の違い

儒家は思想体系であり、人間の道徳的な向上や社会の安定を目的として、礼、仁、義、智といった道徳規範を説いた。一方、儒教は宗教であり、神への信仰や来世の幸福を追求し、神話、儀式、教義などを含む信仰体系である。

儒教が宗教として確立された要因

儒教が宗教として確立された要因としては、以下が挙げられる。

  • 国家による儒教の保護: 儒教が官学となり、国家によって保護されたことが、儒教の宗教としての地位を確立する上で大きな役割を果たした。
  • 民衆の信仰: 儒教は、人々の日常生活に深く根付き、人々の信仰の対象となった。
  • 仏教との融合: 仏教の神秘的な要素が儒教に取り入れられ、儒教はより魅力的な宗教へと変貌した。

 

儒教から朱子学への変遷

朱子学の始まり

儒教は、孔子によって創始され、中国の歴史の中で様々な変遷を遂げてきた。その中でも、宋代(元寇などで有名な元の一つ前の王朝)に朱熹によって体系化された朱子学は、儒教の思想に大きな影響を与え、儒教の主流となった。

儒教から朱子学への変遷

儒教は、漢代に官学となり、その地位を確立したが、その後、様々な学派が生まれ、思想は多様化していった。宋代になると、外患や内乱が相次ぎ、社会は不安定な状態に陥り、人々は道徳的な規範や宇宙の真理を求めるようになった。

このような時代背景の中で、朱熹は儒教の古典を深く研究し、独自の解釈を加えて朱子学を体系化した。朱子学は、宇宙万物が理(理法、原理)と気(物質)から成り立っているとする理気二元論を説き、心性の修養を重視した。

朱子学はその論理的な体系と実践的な側面から、多くの知識人に支持され、宋代以降の儒学の主流となった。朱子学は、科挙の試験科目となり、官僚になるためには朱子学の知識が不可欠とされた。

朱子学が儒教の主流となった理由

朱子学が儒教の主流となったのは、論理的な体系を構築し、道徳的な実践を重視し、国家によって支持されたことなどが挙げられる。

朱子学の特徴

朱子学の特徴として、理気二元論、心性論、格物致知、知行合一などが挙げられる。理気二元論は、宇宙万物の成り立ちを説明するものであり、心性論は人心の修養を重視する。格物致知は、万物を深く考察し、真理を探求することを意味し、知行合一は、知ることと行うことを一致させることを意味する。

朱子学と日本との関係

日本への伝来と普及

朱子学は、鎌倉時代に禅宗の僧侶たちによって日本に伝来した。江戸時代になると、徳川幕府は朱子学を正学として採用し、武士の道徳規範や教育の基礎として位置づけられた。林羅山のような朱子学者は重用され、湯島聖堂が設立されるなど、朱子学の研究と教育が盛んに行われた。

日本における朱子学の影響

朱子学は、日本の社会や文化に多大な影響を与えたのである。忠孝、仁義といった道徳規範を重視し、武士の道徳規範として広く受け入れられた。また、寺子屋などを通じて一般の人々の教育にも影響を与え、身分制度や家制度を正当化することで社会秩序の維持に貢献した。さらに、朱子学の研究は、日本の学問の発展を促し、多様な学問分野の誕生に繋がったとされる。

日本における朱子学の批判と変容

しかし、朱子学は常に肯定的に受け入れられていたわけではない。江戸時代後期には、伊藤仁斎や荻生徂徠などの古学者が、朱子学が過度に抽象的で実生活からかけ離れていると批判し、より原初的な儒学の研究を提唱した。また、江戸時代末期には西洋思想が日本に導入され、朱子学は西洋の科学や哲学の考え方との対立を迫られることになった。

 

朱子学の影響を受けた日本人

朱子学は、江戸時代の日本において道徳規範や学問の基礎として広く浸透し、近代以降の日本社会にも多大な影響を与えたのであった。朱子学の影響を受けた歴史上の人物は数多く存在するが、代表的な人物とその業績を以下にまとめる。

渋沢栄一

渋沢栄一は幼少期に朱子学を学び、道徳観や勤勉さを養った。西洋文明に触れ、実学へと転換したものの、根底には朱子学の道徳観が根付いた。『論語と算盤』で儒教と商法を融合させようとしたように、朱子学は渋沢の思想の基礎となり、企業経営や社会事業における彼の行動原理となりました。社会貢献の精神も、朱子学の影響と言えるかもしれない。

福沢諭吉

福沢諭吉は、初期には朱子学を学んでいた。しかし、西洋文明に触れる中で、朱子学の限界を認識し、より実践的な学問へと転換していったのである。『学問のすすめ』などの著作を通じて、国民の啓蒙に努め、近代日本の形成に大きな役割を果たした。朱子学で学んだ道徳観を基礎に、実学を重視し、個人の自立と社会の発展を説いたのである。

岡倉天心

岡倉天心は、日本美術史家であり、東洋美術の研究者であった。朱子学の思想、特に自然観や美学的な側面に深く影響を受けた。東洋美術の価値を世界に広め、日本の伝統文化を再評価する上で重要な役割を果たした。『茶の本』や『東洋の理想』といった著作は、日本人のアイデンティティを確立する上で大きな影響を与えたのである。

福田定一

福田定一は、日本の教育学者であり、教育行政家であった。朱子学の道徳観や学問に対する姿勢に深く共感し、その思想を教育に活かそうとした。日本の教育制度の改革に尽力し、国民の教養向上に貢献した。また、道徳教育の重要性を強調し、道徳教育の基礎となるべき思想として朱子学を位置づけたのである。

まとめ

朱子学は、忠孝、仁義などの道徳観を形成し、日本時の品性を高めることに貢献した事は間違いないだろう。孔子から始まった儒家思想が韓非子などの学徒を生み、学徒が紡ぐ思想が日本に伝来して、地域に根付き現代社会にも影響を与えている事は歴史の大切さと思想の偉大さを示してくれていると思う。